「フェルミ算」と「さくらんぼ計算」 100メートルの助走をする走り幅跳び選手
今日の物理学は理論家と実験家が完全に分業していますが、最後の「大理論家かつ大実験家」であった物理屋として、エンリコ・フェルミ(1901-54)の名を挙げても、いささかでもまともな物理に関わる人なら、誰も否定しないでしょう。
「原子の火」をつけた張本人でもありますが、何も知られぬ時代にゼロからそれを実現したので、被曝したいだけ被曝して、最期は凄惨な闘病生活であったことを、最も若いフェルミ教授の博士学生だったジェローム・フリードマン博士から直接伺ったことがあります。
チャンドラセカール、南部、ヤンといったそうそうたる物理学者が、看病や心のケアに奔走した経緯を直接当事者からうかがったのは、私にとって一生の宝ものになっています。2004-05年にかけて、国連「世界物理年」の日本委員会幹事を務めたときにうかがいました。
このフェルミ教授が、直観的に整合した計算であるかをざっくりと見積もる計算の達人中の達人であったのは、人も知る事実で「フェルミ算」といった言葉が現在でも使われています。
AI時代に子供たちに求められる、最も重要な「計算能力」は、鶴亀算でもバブルソートでもなく、この「フェルミ算」だと断言して構わないと私は思っており、その原点が「さくらんぼ検算」にあると言えるかと考えます。
お疲れ様でした。では、こんなふうに書かれていたら、どうだろう。
AI時代の子供たちに必要な計算方法は、もちろん「鶴亀算」ではありません。コンピューターのプログラミングの基礎で習う「バブルソート」でもありません。必要なのは、「フェルミ推定」です。
「フェルミ推定」とは、厳密な数字はさておき、ざっくりとした数字を見積もる計算です。たとえば、「東京から大阪まで昼夜を問わず早足で歩き続けた場合、何日かかるか」という問題に対して、「早足だと時速5キロ、東京大阪間は500キロだから、100時間。1日は24時間だから、約4日」というふうに見積もる計算です。
この「フェルミ推定」の原点が「さくらんぼ計算」にあります。
冒頭に引用した文章は、核心に至るまでに、周辺的なことを延々と述べている。具体的には、以下の諸点だ。
● フェルミ教授は物理学の大家であった。
● フェルミは、「原子の火」をつけた。
● その結果、被爆により凄惨な闘病生活を送ることになった。
● フェルミの看護のために、錚々たる物理学者が奔走した。
● 自分は、そのことを、国連のイベントの幹事を務めたときに、彼らから直接に聞いた。
● フェルミは、後に「フェルミ算」と呼ばれる計算の達人だった。
一番最後は、「フェルミ算」の名前の由来を示すもので書いてもいいが、その前に書かれたことは、本筋とは何の関係もなく、有害無益である。
ひょっとしたら、自分が、「錚々たる物理学者から直接に話を聞ける人物」であり、「国連のイベントの幹事を務める人物」であることをアピールしたかったのではないかと思ってしまう。
もちろん、前置きが必要な場合もある。走り幅跳びでも、走り高跳びでも、適度な助走は不可欠である。だが、必要だからといって、100メートルも「助走」したら、まともな記録を出せるわけはない。文章も同じだろう。
ところで、私が聞き直した文章は、不要な「前置き」を削除しただけでなく、若干の修正、補足を加えている。以下の諸点だ。
● 「バブルソート」について説明を加えた。 (一般に知られていない用語には説明を加える)
● 「フェルミ算」を「フェルミ推定」にした。 (一般的な名称を用いる)
● 「フェルミ推定」の具体例を示した。 (内容を理解してもらうには具体例で説明する)
● 「と断言して構わないと私は思っており」とか「にあると言えるかと考えます」といった回りくどい表現を、「です」「あります」という簡潔な表現に変えた。
ところで、「分かりにくい文章」でも、「読む価値のない文章」なら、読まずに放っておけばいいのだが、この著者の文章のように「それなりに読む価値のある文章」の場合は、「分かりにくさ」は罪である。この著者こそ、「時間泥棒」の称号に相応しい。
せっかくの「価値ある文章」である。著者には、立派に更生して、「分かりやすい」文章を書いてほしいものだ。多才な、この人の能力をもってすれば、決して不可能なことではない、と断言しても過言ではないのではないかと私は考えているのである。
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