厳密さは犠牲にする

 昨日のブログ【「予測」に基づく行動は危険】で、歩車分離信号のことを書いた。

 その説明に使った信号パターン図は、南北方向のみ歩車分離信号としていたが、実際は、東西方向も歩車分離信号で、次のようになっている。
信号-2

 ただ、昨日のブログの趣旨は、南北方向が歩車分離信号ということに気づかずに「予測」に基づいて行動すると大変なことになる、というものだったので、その趣旨からは無視しても差し支えない東西方向の歩車分離信号には触れなかったのである。仮に、触れていたとしたら、かえって、理解しにくくなったはずである。
 
 だれでも、厳密さを犠牲にするというのは、多かれ少なかれ抵抗がある。けれども、厳密さを追求すると切りがない。上の図でも、各信号の時間は「いい加減」である。実際の時間に比例した図にした方が、より「正確」には違いない。色だって、実際の信号の色は、図に記した色とは、だいぶ違う。こんなことは、言い出したら際限がない。

 多かれ少なかれ、その時点における表現の「目的」に必要な限度において厳密さを追求すればいいのであって、それ以上の追求は、「目的」にとって、有害である。

 中学校に入って英語を習い始めた頃のことを振り返ってみても、そうだ。

 中学1年生の英語で最初に習ったのが、 "This is a fish." だった。

 このときは、一つの物の名前の前には、必ず "a" を付けると習った。

 しばらくすると、 "This is an apple." という文が出てきて、母音で始まる名前の前には、"a" でなくて "an" を付けると習った。

 さらに授業が進むと、 "This is a desk. There is a book on the desk." という文が出てきて、物の名前でも、2度目に出てくるときは、"the" を付けると習った。

 振り返って見れば、必ず "a" を付けると言った先生は、「嘘」をついたことになるのだが、正しい「嘘」であって、だれも先生を非難したりなどしないだろう。

 むしろ、最初から、"an"や "the"を付けることもあるという話をすれば、生徒は混乱するだろう。

 英語に限らず、どのような分野であれ、学習の過程では、同じようなことが起きる。

 例えば、民法の授業でも、最初は、当事者が権利義務について合意すれば、合意に従った権利義務が発生する、と習うが、しばらくすると、公序良俗違反による無効、錯誤による無効などが出てきて、合意による権利義務の発生も絶対的ではなかったことが分かる。

 私がブログで書いていることも、決して「絶対的」なものではなく、ほとんどの場合、例外があるはずだ。だからと言って、原則を学び身につけることの価値は失われることはない。

 厳密さについては、少し観点は違うが、以前のブログ【「昨日、大阪で研修会があり、その研修会に出席しました。」】【駐車場から事務所まで、58メートルです】にも書いた。




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